病院建築・69
玉野市民病院とそのサインボード
辻野 純徳
1
1浦辺建築事務所
pp.61-65
発行日 1974年11月1日
Published Date 1974/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541205484
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玉野市民病院
玉野は造船の町「玉」と,中国と四国を結ぶ連絡船の町「宇野」が一体化した人口8万の都市で,瀬戸内海でも陽光に輝き,南欧的雰囲気さえある.玉野市民病院は市の中心部に立地し,市庁舎,市立総合文化センターなどに近接する.6階建,延面積10,656m2(看護婦寮を含む),205床の規模で48年10月開院した.
市民病院が,かつての療養所的存在であった辺鄙な場所から現在地に移されるにあたり井上市長,上田院長,市厚生委員会はこぞって,総花的な近代風病院ではなく,本当の意味の地域に密着した‘市民病院へ行けばいつでも診療が受けられる体制’をめざし,市民に密接した診断と治療を重視する地域病院に徹し,特殊な,より高度な技術・設備を要するものは,隣接する岡山大学付属病院・倉敷中央病院などの基幹病院に依存することとした.病院のデザインに対しての市長の唯一の注文は‘ギャラリー風の病院’で,私どもの志す‘病院臭くない病院’と一致し,ほぼご満足いただけたようである.加えて病院に,病を治す場だけでなく,社会復帰をめざす場としての願いもこめて,病院の通念では強烈かもしれない朱系統から白までの色彩でやや華やかな雰囲気になったが患者には快く受け入れられたようである.
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