問いかける沖繩・7
救急医療
伊波 茂雄
1
1沖縄県厚生部
pp.114-115
発行日 1973年7月1日
Published Date 1973/7/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541205062
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沖縄県は第2次大戦によって焼土と化し,すべての社会資源は荒廃し,県民は家屋財産を失い,生活の基盤を失ったまま,米軍の管理下にはいった.さらにサンフランシスコ平和条約によって祖国日本から切り離され,戦争の傷痕を癒やすこともなく引き続き異民族支配下へ強制編入されてしまった.以来27年間,日本国民として享受すべき諸権利も行使できず,国による社会基盤整備や福祉拡充もなされず,米国の軍事優先の政策下でわずかな援助を受けて,細々と医療施設整備を行なってきたことを銘記すべきである.
終戦当時,医師は50名足らずしかいなかったといわれ,その確保策として,昭和24年に奨学制度が設けられ,医学生を本土大学へ送り出し,今日まで継続している.また,それより早く,昭和21年に3か所の地区病院(当事医療公営であった)に看護学校が付設され,看護婦養成が始められた.さらに医師不足を緩和する方策として,医師介輔・歯科医師介輔という特殊の資格を規則で設定し,限定された治療を担当させた.この介輔制度は現在も特別措置として認められ,主として医師確保の困難な地域で診療に従事している.このようにして医療要員確保と施設設備の整備は終戦後ただちに手がけられたが,当時の琉球政府の力ではとうてい国と同様の成果をあげることは困難であった.
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