病院長プロフイル・35
衆望を担う東京病院協会第二代理事長小山武夫氏
pp.49
発行日 1956年8月1日
Published Date 1956/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541201132
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戦後日本の衞生福祉問題がクローズアツプされて,従来の取締行政から,医療の向上,病院の在り方,公衆衛生の飛躍,更に看護教育の刷新等々,目まぐるしい位に,次ぎ次ぎと大なる発展をした。このとき,首都東京での動きは全国の関心事であつた筈だ。昭和21年初秋その初代衛生局長として登場したのが小山武夫博士その人であつた。小山氏は,内外人環視のうちに脚光を浴びてといいたい位に旧日本を文化国家へという新しい動きを衛生力面へ導く主役を演ずる立場に置かれたのである。然し経済基盤の浅い日本では衛生問題へ多額の金を投ずることの困難は火を見るよりも明らかであつたが,当時の占領軍当局はサーサーとせきたてて止まない。人これをマニトフ旋風と呼んで,手を焼いたが,氏の行政手腕は多額の予算を獲得し強力な施策によつて,首都の衛生問題のエポツクを短期間に造り上げてしまつた。後日,氏は折にふれては,予算はない,施設は悪くて動かない,マニトフ女史はやかましいので随分と困つたがネーと述懐することがあつたが,その話し振りは誠に淡々としていた。物に動じない性分であるのか。
このように,峻しい衛生行政の障壁を突破して全国にそのモデルを示したが,衛生局5週年の記念祭を済ませたと思つているうち氏は東京都を退いて済生会東京支部副支部長,済生会中央病院長として済生会へ返り咲きをしてしまつた。小山氏は識見の人である。
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