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大きな三色旗が掲げられた凱旋門からコンコルド広場に向かってシャンゼリゼを進む7月14日の革命記念軍事パレードは,エコール・ポリテクニーク(理工科学校,グランドゥ・ゼコールの1つ)の学生を先頭に行進する.この伝統ある理工科学校はフランス革命直後の1794年に国防省の管轄下に創設され,毎年軍事パレードの先頭を歩く栄誉を担っている.このパレードを見ているといつも,私には思い起こすことがある.それは近代化学の父ラヴォワジエ(Antoine-Laurent Lavoisier,1743〜1794)と近代医学の父ピネル(Philippe Pinel,1745〜1826)の人生である.彼らは激動する革命期のフランスにおいて,われわれから見るとそれぞれ正反対の生き方を強いられた科学者であった.
ラヴォワジエは1743年に最高裁判所の代訴人の第2子として旧体制下のパリで生まれ,旧体制派の知識人として生きた.1764年に法学の学士号を取得後,1768年には非凡な才能と豊富な財力で科学アカデミーの会員と徴税請負人になった.1775年には,テュルゴーの要請で王室火薬監督官となり,この時の弟子で革命時に亡命したデュポンが,米国において世界最大の火薬工場を建設することになる.化学者として彼を有名にさせたのは,燃焼に関するフロギストン(phlogiston:燃素)理論を打倒し,近代化学を創始したことである,それまで「燃えるもの」とは,フロギストンを持っている物質であり,「燃える」とはこのフロギストンが離脱することであると考えられていた.1777年,ラヴォワジエは水銀を空気中で加熱すると重量が増加し水銀灰(酸化水銀)になり,この酸化水銀に集光レンズを用いて光エネルギー(hv)を与えると新しい気体を発生しながら,もとの水銀に戻ることを実験的に証明した.そしてこの時にできる新しい気体を,1787年,酸素(oxygene)と命名した.酸素そのものの発見に関しては,英国の化学者プリーストリーの方が少し早かったが,化学反応の前後において物質全体の質量が変化しないという質量保存の法則の発見は,彼をして定量的に化学反応を論じる近代化学の父とした.バスチーユ襲撃の起こった1789年に出版された『化学原論』はニュートンの「プリンキピア』に相当するもので,彼はこの本の中で,錬金術以来の複雑怪奇な化学物質名を,リンネの植物分類学に基づいて合理的に体系化・記号化している.1793年にはメートル法の制定に貢献するが,1794年5月,断頭台の露と消えた.皮肉にもロベスピエールが処刑される2ヵ月前で,彼が2カ月早く処刑されていればラヴォワジエは助かっていたかもしれない.
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