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“心にもあらで憂き世にながらえば恋しかるべき夜半の月かな”
百人一首に王朝風の典雅さのなかに何か怨念をにじませたような一首を遺された三条天皇は確かに不運な帝であった.自分の外孫を早く帝位につけようと画策する時の権力者・藤原道長との確執,在位四年の間に二度にわたる内裏の出火と貴重な財宝の焼失,これを天道の諌兆と屁理屈をつけてあからさまに譲位を迫る道長一派…….こうした権謀術数の渦中に身をおいて心の休まることもなかったであろう.しかし,帝の最大の不幸は重い頭蓋内疾患に罹られたことである.病の兆候は即位された翌年の長和二年(1012年)に左の視力の障害で現われた.症状は一進一退しながら徐々に悪化し,遂に両眼の視力を失われ,また物の匂を嗅ぐこともできなくなり,最後には麻痺症状も出現して行動も不自由になられたという.遂に退位を余儀なくされ,その翌年の寛仁元年五月(1017年)43歳で崩御されている.先輩・恩師として私が敬慕する元都立広尾病院院長で,同時に国学院大学教授でもあった河上利勝先生はその著書“百人百病”の中で本文でもこの本からいくつか引用させていただいているが—三条帝のご病気は脳腫瘍であったと推測されている.脳外科医としてさらに専門的に診断するならば,次の二つの理由で鞍結節部髄膜腫あるいは嗅窩髄膜腫が最も疑われる.第一に頭記の歌は譲位される寸前で,症状はかなり進み視力は殆んど失われていた頃のものである.その秀れた内容からして髄内腫瘍は考えにくく視交叉部付近の髄外腫瘍と診断するのが妥当である.第二に下垂体腫瘍や頭蓋咽頭腫も考慮しなければならないが,帝には未だ幼い皇子・内親王がおられたことからこの両腫瘍は否定的である.結局,前頭蓋窩の髄膜腫,特にクロノロジーから鞍結節部のそれとするのが最も合理的であろう.
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