扉
杉田玄白先生
林 実
1
1福井医科大学脳神経外科
pp.1057
発行日 1986年8月10日
Published Date 1986/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1436202266
- 有料閲覧
- 文献概要
杉田玄白先生は1733年若狭国(現在の福井県)小浜藩医杉田甫山の子として生れ,21歳で小浜藩医となった.若い頃,家業のオランダ外科を学んだが,その頃の外科は膏薬療法を主とする程度の低いものでありたらしい.玄白先生は常々これに不満をもち,"それ医なるものは人を医す.人を医するものは,人を知らざれば能はず"という信念のもとに解屍を実見し,西洋医書の記述が真理を伝えているとの確信をいだき,同志とともに「ターヘル・アナトミア」の翻訳を決意したのであった.1774年「解体新書」が刊行されたが,当時の事情は「狂医之言」(1775年),「和蘭医事問答」(1795年),「形影夜話」(1802年),「蘭学事始」(1815年)などの玄白先生の著書や書簡集にくわしい.
「解体新書」が上梓されると,蛮夷の医書を信ずるのは医家の賊であるという漢方医の嗷々たる非難の声がおこった.しかし,玄白先生は外科医であったから,"解体は瘍科(現在の外科)の要にして知らざるべからず"との信念に立ち,"身体内外のこと分明を得,今日治療の上の大益あるべし"と説いてその非難をかわした.「解体新書」を翻訳したときの苦心を回顧した「蘭学事始」に,"一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散って満池に及ぶとや"という一節がある.「解体新書」が世に出ると,当時の医師達は大いに刺激され,それまで日本の医学の主流を占めていた漢方医学が力を失ない,西洋医学がとり入れられる気運がつくられたのであった.
Copyright © 1986, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.