扉
横浜散策に想う
佐藤 修
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1東海大学医学部脳神経外科
pp.111-112
発行日 1981年2月10日
Published Date 1981/2/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1436201265
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アメリカ合衆国の提督Mathew Galbraith Perryが4隻の黒船を率い江戸幕府に開国を求めて姿をあらわいたのは嘉永6年6月3日(1853年7月8日)のことであり,翌年の日米和親条約締結を経て,安政6年(1859)ついに永い鎖国の夢から醒めて開港するに至るのが,港ヨコハマの幕末史であることは皆様よくご存知の通りであるが,文明開化の時代の横浜を語るとき,「ヨコハマ」とカナ書きにしたほうが何となくロマンがあって快く響くと考えるのは小生だけであろうか.さて,そのヨコハマは次第に内外の商人が参集し,活気を呈してきたものの,一方,国内の一般情勢は開国佐幕派と,尊王攘夷派の対立が激しく,決して安定したものではなかったようである.攘夷派による外国人殺傷事件が相つぎ,ついに文久2年8月(1862)英人Lennox Richardsonら4名が薩摩藩主島津久光の行列に馬を乗り入れた結果,殺傷されるという大事件が発生した.いわゆる生麦事件である.
これを契機にイギリスは文久3年(1863)谷戸坂上の山手115番地イギリス領事館付近に外人居留地警備の名目で仮駐屯地の建設を求めてきた.長州戦争に大敗を喫した幕府はこの要求をのみ神奈川奉行を通じて,5万3,000両という大金を支出せざるを得ない羽目となった.フランスもイギリスに遅れをとるまじと,山下橋から谷戸坂を登るときの左手の小山,通称フランス山にこれまた数百名の兵隊を駐留させるに至った.いわばヨコハマ租界の出現である.
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