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大学卒業から6年間かけて修練してきたこれまでの専門医養成プログラムが,初期臨床研修必修化により,事実上4年間に短縮された.そのため,研究を後回しにし,臨床に特化せざるを得ない状況も生まれている.私は,「鉄は熱いうちに打て」の方針で,若いうちに多くの臨床経験を積むことと同時に,研究にも従事し,科学的思考法を修得し,科学に根ざした論理的な脳神経外科学を学ぶことも,将来的に考える力を養う上でとても重要であると考えている.最近,脳神経外科はsubspecialityの分化がすすみより専門性が高くなり,指導体制・方法も複雑化してきている.私は昭和の終わりという特殊な時代に脳神経外科の道を選んだが,その時代はmicrosurgeryが導入され脳卒中の外科治療が軌道にのり,新しい脳神経外科の黎明期であった.医療環境や教育体制は現在とは全く異なっていたが,脳神経外科医を育てるという教育の根底にあるspiritsについては不変だと感じている.そこで,昭和を知らない世代へ向けて,鈴木二郎先生からご指導いただいた私のジュニアレジデント時代を紹介させていただきたいと思う.
鈴木先生は,長年にわたり仙台市長町にあった東北大学附属脳疾患研究施設の脳腫瘍部門を主宰され,長町分院に隣接した(財)広南病院を臨床活動の拠点としていた.したがって,星陵地区の大学病院に病棟と外来が設置された後も,広南病院で診療を継続した.大学病院では,グリオーマなどの放射線治療を要する脳腫瘍を中心に診療が行われていたが,なんと2名の病棟医しかおらず,教授を含めほとんどのスタッフが広南病院でくも膜下出血をはじめとする脳卒中の外科治療と研究にあたっていた.広南病院の名は,所在地である長町が広瀬川の南にあることに由来する.先輩からすでに本誌で紹介されているように,別名“長町番外地”とも呼ばれていた.陸軍幼年学校の廃材を用いた木造2階建ての建物は,およそ病院と呼べるような風貌を持ち合わせておらず,初めて訪れた人は決まって入り口付近で当病院を探していたのを憶えている.研究棟もすべてが木造で,歩くと階段や廊下のいたるところが軋みギシギシと音がした.窓枠は必ずしも直線的ではなく,隙間をガムテープで塞いでも冬は粉雪が舞い込むことがたびたびあった.また手術室はカーテンを開けると窓越しに外が見えるような普通の部屋で,2部屋のうち1部屋は解剖専用でもう一方の大きめの部屋にベッドが2台設置されていた.医局の奥には,工事現場でよくみられる鉄パイプ製の梯子を伝って出入りする,蚕棚と呼ばれる仮眠室が天井からぶら下がるように造られており,そこには川の字に5人ほどが眠れるように布団が敷いてあった.梯子の下に脱ぎ散らかしたサンダルの数で,空き状況がわかるが,仕事の遅い新人はいつも就寝(連日泊まりが続くことは日常茶飯事)が後になるので,暗闇の中空き布団を探しているうちに先輩の頭や足を踏んづけ顰蹙を買った.当然24時間暖房完備ではなかったので,どこでも寝られるという訳ではなく,寒い冬などはナースセンターの診察台で煌々と輝く蛍光灯のもと,ナースコールを子守歌につかの間睡眠をむさぼったこともたびたびであった.
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