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─NHKのアナウンサーまでが,「世論」を「よろん」と読みはじめたとき,私はテーブルにつっぷしておいおい泣いた.いや,これはちょっとおおげさな物言いだったか.だけど,おいおい泣きたいぐらいの衝撃を受けたのは事実だ.「世論」の読みはあくまで「せろん」であってほしい.「よろん」という言葉には,本来「輿論」というれっきとした漢字が別にあるのだ.漢字検定取得を目指す頑固な老人のように,テレビに向かって文句をつける.絶滅寸前の漢字の読み方は,他にもある.「鬱陶しい」だ.これはどう考えても「うっとうしい」のはずなのに,最近「うっとおしい」と表記したものが激増している.「いとおしさがうっとうしいまで高じた状態」を表す新しい言葉か?─
以上は女流作家三浦しをんのエッセイ『人生激場』より抜粋したものである.われわれの医療界にも世間での読み方と異なる漢字がある.「腹腔」や「口腔」などは好例で前者は「ふっくう」と読み,後者は「こうくう」と読む.さらに造語に近いものでは「増悪」が一般的に使われているが,広辞苑には収録されておらず,「悪化」が正式な言葉であろう.「病状が悪化する」と表現すべきところを,「病状が増悪する」という使われ方が多い.「増悪」には,再発,進行,衰弱,消耗など包括的な内容を含んでいる印象がある.「急性増悪」となると時間的経過まで捉えている.しかし,造語には注意が必要で,拡大解釈や派生・転用の危険を孕む.明治の文豪夏目漱石は造語の名人といわれているが,文学の世界では許されても(表現が豊かになるとの理由で),科学の分野では言葉の定義は大切で忠実に守らなければならない.その点で,女流作家ほどの驚愕はないが,筆者が気になっている用語がある.それは「転移」の使われ方である.
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