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Ⅰ.プロと医学教育
先の(2009年)8月13日,作家の海老沢泰久氏が59歳の若さで十二指腸癌のため逝去された。直木賞作家だが,スポーツ関係の小説やノンフィクションの作品が多く,文章のうまさには定評があった。ある人は『品のいい文章をわかりやすく簡潔に書く』と表現している。その特質にパソコンメーカーのNECが目をつけた。パソコンの解説書は技術者が書くためか,初心者には不親切で,わかりにくいものということが当たり前のようになっていたが(経験の浅い余裕のない医者が患者さんに専門用語を駆使して話すのと同じことなのだろう),それではいけないと思ったのだろう。氏の手による『これならわかるパソコンが動く』が1997年にできあがり,初めて誰にもわかる解説書ができたと当時評判になったものだ。その著書の代表作に辻 静雄さんの半生を扱った『美味礼讃』がある。辻さんは辻調理師学校の実質的な創業者である。新聞記者をしていたのに,奥さんの実家の料亭を継ぐことになって,それ以来フランス料理にのめり込み,最後は職業病ともいうべき肝硬変になって60歳でこの世を去られたのだが,本書では彼の生き様を見事な文で綴っていて,決して短くはないのに読後感は爽快である。『美味礼讃』文庫版のあとがきで,向井 敏は,『海老沢があまりにも素晴らしい伝記を書いたために神様は辻 静雄を妬んで,早くに天国に召してしまった』という解説を書いたほどである。
その辻さんにもフランス料理に関する著作以外にいくつかのエッセイがあるが,その一つに遺稿集である『料理に“究極”なし』がある。彼はその中で,『ちゃんとした生活ができるようになるには大学を出て,以後順風満帆で行っても最低20年かかる。が,その程度でうまいものは食えない。』といっている。薄給の大学教員できた私にはこの言葉は今もってこたえている。次いで『みんな上りつめていって,生存競争に勝った人だけしかうまいものは食えないのだ。うまいものを食いたいと思ったら絶対に出世しなければいけない。安くてうまいものなど本人の独りよがりで,本当は世の中に存在しない。』と続く。また,『料理の技術というのは作る人間の切磋琢磨だけでは絶対にブラッシュアップできないということ。客にうるさいのがいてこそ,ということは,金持ちがいてこそ料理の技術は飛躍するのだ。金持ちが“おまえのところより向こうのほうがいいぞ”というから,こんちくしょうと思ってよくなるのだ。つまり,料理は都市文明の産物だということである。』とも述べている。
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