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悪性リンパ腫はHodgkin's disease(最近のWHO分類ではHodgkin lymphoma)とnon-Hodgkin's lymphomaに大別される。すなわち,どちらにもHodgkinという人の名前がついている。そして,この名前は悪性リンパ腫の診断および治療を専門にしているわれわれのみならず,医療関係の仕事に携わっている多くの人々にとっては親しみ深い名前であると言ってよいであろう。ただ,この人物については自分もそうであったように,多くの人々は“ホジキン病”という疾患を記載した人物であることと,英国のゴードン博物館に掲げられている有名な肖像画以外にはあまり知らないと思われる(図1)。自分がこの人物に興味をもつきっかけとなったのは,わが国を代表する血液病理学者であり,なおかつThomas Hodgkinそのものの研究者でもある広島大学総合科学部の難波紘二氏が,1983年に日本網内系学会誌に著した「ホジキン病―その発見と再発見に関するノート」に接したことであった。難波氏はそのほかにもHodgkinについて数々の興味深い論文や訳書を著されているが,自分はこの「ノート」で引用された文献を暇を見つけては一つ一つ集めて読んでみるという楽しい作業をやってみた。したがって,このエッセーもどうしても氏の「ノート」に沿ったものになってしまっていることをあらかじめお断りしておかなければならない。
Thomas Hodgkinは1798年にロンドンの北,ペントビルで生まれ,1866年,彼の最後の旅行中にエルサレム近郊のジャッファで病死している。わが国で言えば江戸幕府が蝦夷地調査隊を編成した寛政10年に生まれ,坂本龍馬の獅子奮迅の努力により西郷隆盛と木戸孝允とによる薩長秘密同盟が結ばれた慶応2年に亡くなっていることになる。その少年時代に,のちに偉大な哲学者であり経済学者となるジョン・ステイアート・ミルと遊び友達であったという記録は興味深いが,1820年にエジンバラ大学医学部に入学し,1821年10月~1822年9月までパリに滞在している。パリではシャリテ病院とネッカー病院の講義に出席し,聴診器の発明者であるレンネック教授の指導を受けている。そのためHodgkinは英国に最初に聴診器を持ち込むことになる(図2)。1823年に卒業論文を完成後,イタリア,そして再びパリに滞在している。帰国後の1826年にガイ病院医学校の病理解剖学講師および解剖学博物館主任となり,多くの剖検を手がけるとともに標本の収集,整理を行っている。そして1832年に,問題の“On some morbid appearances of the absorbent glands and spleen”(図3)という論文がロンドンの内科外科会でRobert Ree博士によって代読されている(Hodgkinはこの学会の会員でなかったため)。この論文でリンパ節腫脹と脾臓の腫大をきたした7例の剖検例を報告しており,うち6例はガイ病院で剖検され,5例はHodgkin自身が剖検を行っているが,1例はロンドンに新設された医学校の病理学教授となったRobert Carswellがパリのサン・ルイ病院の剖検所見をスケッチし,プロトコールを写しとってきたものをCarswellの同意を得たうえで加えた症例である。誌面の都合上,各症例の詳細に触れることはできないが,Hodgkinは3つの重要なことを述べている。それは,1)この疾患はリンパ節の原発的な侵襲であり,2)そして,それは炎症ではないこと,さらに,3)リンパ節と脾臓とは密接に関連があることに触れている。
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