- 有料閲覧
- 文献概要
高校生の頃,当時まだ白黒テレビの医学ドラマでアメリカの若き脳神経外科医「Ben Caseyベン・ケーシー」の胸のすくような活躍を見て大いにあこがれた(いまでも半袖の医師用白衣に「ケーシースタイル」の呼称が残されている)。昭和39年に大阪大学医学部に入学した。兄,泰右(秋田大学名誉教授・解剖学)は基礎医学に進んでいたが,私は漠然と神経学に関連する臨床医学に興味をもっていた。どの科を選択するか決めかねたまま最終学年を迎え,アメリカ留学帰りの大鳥利文先生(近畿大学名誉教授)による,当時としては斬新な「神経眼科学」の講義を受けた。眼科の立場から神経学を論じたもので,眼所見と神経症候との密接なかかわりの理路整然とした説明にどの講義よりも鮮烈な感動を得た。このときの大鳥先生との出会いで私は眼科を選び,なかでも神経眼科学を専門とすることを決めた。
昭和45年に卒業し,眼科に入局して大鳥先生とともに神経眼科専門クリニックの診療に没頭した。当時,阪大病院には近畿地区だけでなく西日本各地から,神経眼科疾患で診断のつかない患者や治療に難渋する多くの患者が紹介されていた。頭蓋内疾患の画像検査としては単純X線撮影,血管造影,脳室空気撮影しかなく,両耳側半盲やうっ血乳頭の眼科所見が開頭手術施行の決め手になるほど重要視されていたため,常に緊張感をもって診察にあたっていた。脳神経外科が一般外科から独立して創設された時期で,脳神経外科,眼科,放射線科の若手の医師が地下のカンファレンス室に集まり,夜遅くまで症例検討を行い活発に議論していた。神経眼科クリニックで何らかの頭蓋内病変を疑う患者を診たとき,いったん眼科診療を中止して,大鳥先生と私は十分な眼科所見を携えて脳神経外科や放射線科の診察室を訪れ,担当医と診断や治療法についてディスカッションした。
Copyright © 2007, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.