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はじめに
私が眼科医になった昭和39年(1964)頃は,眼科医はまだ多くなく,ほとんどの医局関連病院は1人医長で運営されていた。入局して3週間経った4月下旬に,一関連病院の医長が病気で入院されたため,大学の講師と私がペアで隔日に代理診療に出向することになった。そして約1年後にはこの講師の先生が開業して名古屋を離れられたため,大学院生の身でありながら,朝,この代務病院に出かけて1日診療を行い,夕方家に帰って弁当を持ち,夜,名古屋大学の環境医学研究所に通って電気生理の勉強をする毎日となっていた。
当時は網膜剝離はまだ難病で,復位促進術には強膜短縮術が主に用いられており,術後の安静期間も長く,復位率もあまりよくはなかった。そんなある日,出張先の病院で網膜剝離症例を受け持った。気のよさそうなおばあさんで,大学に紹介すればこの人は何日も絶対安静で寝ていなければならないこと,それでも治らない場合が多いことを考えると,やるせない気持ちになった。
私は学生時代,S病院に頼まれて夜,自動車の運転手をし,眼球摘出に行くことがあった。そこで,その折など出発前の時間待ちの間に手術をみせていただいていた杉田慎一郎先生に相談してみた。そして,たまたま発行されたばかりであった“Highlight of Ophthalmology”の小冊子をいただいた。この小冊子を読んでいくうち,Custodisの強膜内陥術を知り,早速内陥材料を注文した。1966年当時はすでにCustodisが用いたPoliviorは副作用で使用されておらず,シリコーンラバーでできた太いシリコーンロッドが届けられた。このシリコーンロッドを用いて手術したところ,幸いに網膜は1度で復位した。このように,当時はまだ日本ではほとんど用いられていなかった強膜内陥術は網膜剝離の治療成績を一変させ,入局後2~3年の新人医師でも,単純症例であれば思いのままに治癒させうるとの実感を持つに至った。
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