診療室
永久避妊に就て
衞藤 毅
1
1釜石製鉄所病院産婦人科
pp.50-52
発行日 1953年1月10日
Published Date 1953/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409200778
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敗戰後の国策による人口制限の一方法として産兒制限が唱えられて来た。個人問題としても経済事情の変化より大家族生活に困難を感ずる樣になり,家族数の制限と言うことが痛切に考えられる樣になつた。しかし産兒制限の意味が誤解され,産兒制限の手段として人工妊娠中絶が行われ,産婦人科医は好むと好まざるに拘らず人工妊娠中絶手術を多教に行うこととなり,その結果として中絶届出数64万人中には約1,200人の死亡者が推定される樣な惡い附隨現象が起つて来た。それで人工中絶より受胎調節と言う木来の姿に立帰ろうとする運動が起り,今度の優生保護法改正でも特に受胎調節指導と言うことが強調される樣になつた。
咋年12月26日閣議了解事項となつた「受胎調節実施要領」の中にも「工場,婦人団体其他の特定集団に対する教育指導は優生保護相談所又は保健所が行う外集団自体もこれを行う」とされている。当病院は従業員約7,000人を擁する製鉄所に附属する病院で,世情を反映して人工中絶数相当数にあり,昭和26年10月に産婦人科内に家族計画相談室を設けて受胎調節の実地指導にあたり,同時に別册の樣なパンフレツトを発行し,一般彼業員の啓蒙運動に努めて来ましたがその効果は未だに挙つていない。
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