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症例報告という言葉がある。これはどういうものをさすのであろうか。①或1例の患者での臨床的,あるいは臨床病理解剖的観察で,従来の知見に新たに補遺すべき結果が得られ,それを報告する場合。それでは,②症例数が2,3例の場合はどうか。症例報告とする場合もあろうし,しない場合もある。③更に例数がふえて,10例,あるいは30例,50例のときはもはや症例報告という習慣はない。そうすると①②③で着眼点,問題点が同質であるなら,違いは例数ということになるが,少数例での検討が症例報告で,多数例での検討は症例報告でなくなることになる(多くはこれを研究と称し,原著と名づけている)。たしかに,1例での検索,検討より2例での方が一層確かであろうし,それよりは3例の方が更に確かかもしれない。それでは50例なら文句なしに確かかというと,そう簡単にはいえない。50例を構成する1例1例がどれ程確かであるかという問題があるからである。どの著者も自分の報告に関する限り,その点は絶対に大丈夫と太鼓判をおすであろうが,またそうでなくては困るが,しかしそれを証明するには矢張り客観的にそれを示す必要がある。すなわち50例での検討結果といえども,その1例1例については症例報告から構成されていなくてはならない。比較的古い欧州の論文にはそのような記述が多く,現在でもBrainやRevue neurologiqueなどにはその傾向が残っているが,我国ではとかく研究報告や原著となると,その素材の1例1例については書かずに,たかだか代表例があげられる程度である。基礎医学的研究ではその研究の条件の詳述が要求されるのに,臨床的研究ではその素材の条件が寛大である。人の臨床に関係あるものであれば,その条件である臨床成績は明細でなくてはなるまい。雑誌作製上の可成りきつい頁制限も原因の一つであろうが,症例報告と臨床研究とを差別し,根底には症例報告は一段と価値の低いものという考え方があるのではなかろうか。学会によっては総会に症例報告を禁じ,または採用しない習慣があり,また雑誌によっては原著・研究と症例報告では頁数に差をつけているのも,その一つの現われであろう。そこで思い出されるのはHaymakerとKernobanが"Landry—Guillain-Barré症候群"なる新語を造ったとき,その全50剖検例の臨床成績に12頁を費している。結局のところ彼らの新語は廃止さるべきものではあるが──その理由についてはここではふれない──その臨床記述があればこそ,その剖検所見は微細を極めているが,その中には臨床的にどう考えてもおかしな症例が含まれているのがわかるし,彼らの見解の誤りを指摘することもできようというものである。一つの論文というものは著者のいいたいことのデーターだけを揃えればよいのではなく,他の人がそれを批評し,あるいは別の目的にも利用され得るものであるのが望ましい。ある人が文献をしらべて,「今までに報告されているもので,ある事を検討しようとしたら,最近の論文には症例記述がなかったり,簡単で役に立たないものが多くて困った。」といっていた。数を似って示す統計と,現実の臨床とは接線をもつているが,異なるdimensionの問題で,実際に患者を目の前にしたとき,役に立つのは数値ではなくて,今までの症例なのである。
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