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Binswanger,Straus,Gebsattel,Weizsäcker,Minkowski,Eyなど巨匠の時代が終わりを告げ,生物学的精神医学(専門誌創刊は1967年)の台頭と共に,「精神病理学の危機」(Janzarik 1976)について語られるようになって以来,既に15年の年月が過ぎ去ったが,Wien世界精神医学会の日独墺シンポジウム「危機の中なる精神病理学」(Pauleikhoffら1983)を経た今日なお,精神病理学の課題と方法論をめぐる論議が絶えない。「精神医学の基礎科学としての精神病理学」(Janzarik 1979)を考えて,精神病理学抜きで治療的実践に突進する若い精神科医層の無関心を慨嘆する見解に対して,「精神病理学(者)がみずから自律的科学(者)だと理解」することには疑問があり,「哲学的,心理学的,社会学的基盤の上に閉じた系としての精神病理学を築くことはもはや不可能」で「バビロン的言語混乱」を招くばかりだとの反論がある。つまり一般化(法則定立的な自然科学)と個別化(個性記述的な史的科学)という二つの経験的知識は互いに相補的なもので,「精神病理学は…すべての科学的方法を包括する」「開かれた」「経験科学」として,「多因子的に規定された」「複合的な条件関連の共通の最終道程である精神症状群」を解明すべきだと主張し,精神病理学の実質的定義Realdefinitionではなく,名目的定義Nominaldefinitionを採用する立場(Heimann 1977/79)がある。この疑問に対しては逆に,Jaspers, K. Schneider以来の記述精神病理学に代えて,精神疾患を「関係障害の類型学」として研究する間作用精神病理学interaktionale Psychopathologieを標榜する一方,「経験主義の名称のもとに精神病理学を願い下げる」Heimamの試みを非難し,「客観的観察の用語で語ることのできない心的異常性」の「本質」「人間学的意味」を言語化することが精神病理学の関心事だとして,Müller-Suur(bestimmtes Unbestimmtes:1955),Conrad(Gestal tanalyse:1958),Rümke(Praecoxgefühl:1958),Zutt(Standverlust),Blankenburg(Verlust der naturlichen Selbstverständlichkeit:1971)などの例をあげる立場(Glatzel 1978-1990)がある。また「精神障害で問われる諸現象や問題は決して単純に経験的なものではなく」「精神病理学者は哲学的内省なしにすますことはできない」という新進の発言(M. Spitzer 1988)も見逃せないであろう。
このような状況を前にしてMundt(1989)は,人間学的現象学と精神分析(1950〜60年代),次いで若干イデオロギー的となった社会精神医学(1970年代)の解釈学的・思弁的時代から,経験的・自然科学的傾向に移行するあたりで精神病理学にも深刻な変動が始まり,操作主義的概念形成とこれを用いた経過・診断研究の時期が到来したが,これも一応の終熄に近づき,いまや病的過程(治療経過,ライフ・イベント,家族力動,精神生理学的過程と精神病理学的過程の相関,個人内の認知的および情動的加工など)の経験的研究に力点が移りつつと展望した上で,解釈学的アプローチと経験的・実証的方法論にはそれぞれ拭い難い難点があるのは,精神医学的思考が避けて通ることのできない「心身論と方法論的ディコトミー」に由来するものであり,この二つの研究方法の相互の「健全に機能する弁証法」を追及することが望ましいと指摘し,精神病理学に以下の再定義を試みた。精神病理学とは「異常な体験・情態・行動を,その心的・社会的・生物学的関連において記述すること」であると。だがこの比較的冷静な位置づけによって果たしてMundtの期待どおり,将来の「精神病理学が臨床精神医学の中心」に置かれることになるのか否か。
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