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私は学生時代(慶大医学部)に先生の司法精神医学の講義を聴いた。当時の学生にはなじみにくい学問分野であったが,先生は教壇をあちこち歩きながら,独得のジョークを交えて学生を笑わせ,なかなか人気(?)のあったことを覚えている。卒業後,神経科教室へ入ってからは,先生の御声咳に接する機会は多くなったが,私が都内の精神病院の管理者に転出してからは,行政官でもあった先生と私の間は,監督する者とされる者とに変った。およそ役人らしからざる役人であったが,悪質な経営者には峻巌な態度を崩さず,当然病院業者からはずいぶん怖がられていた。先生が大変ないわゆる読書家であり愛書家であったことは知っている人も多いと思うが,鞄の中から古色蒼然たる書物を取り出し,今日これを神田の古書店で見つけた,と言って嬉しそう自慢されることもしばしばあった。こうして先生が数十年にわたって蒐集された万巻の古書・古文献は先生の胸中で醞醸され,晩年俗事から開放された先生は,あたかも蚕が糸を吐き繭を作るように,十巻数千頁に及ぶ御労作を発表された。日本精神病学書史(呉秀三賞受賞),日本狐憑史科集成その他で,詳細は先生の業績リストを一見すれば分るが,将来は知らず,今日もうこのような著述をなしうる人はいない。また先生のこの一連の著作を味読し,その真価を知る人も多くはないであろう。
このような学術上の偉業のほかに,先生が精神医療の世界に残された大きな足跡は,民間精神病院を統一組織化し(日本精神病院協会および東京精神病院協会),有力な団体として育て上げたことと,精神衛生法の制定に主導的な役割を果たされたことである。協会の設立は昭和24年であり,精神衛生法の制定は翌25年であるが,二つの運動はほとんど平行して進められていた。しかし金子先生の胸中には,まず民間病院の組織化を優先させることであったもののようである。当時私は,植松(協会の初代理事長),金子両先生の下でお手伝いをしていたから,その間の事情は知っているつもりであるが,精神科医の長年の悲願であった「精神病者監護法」と「精神病院法」を廃棄し,新しい精神衛生法の制定を企図するに当っては,まず精神医療の実質的な担い手である民間病院の全国組織を作ることが先決であると考えておられたようである。この組織の結成が,法制定運動の有力な背景となるばかりでなく,危惧された官僚ペースの作業の歯止めになると考えたのが,先生の本音だったと思う。精神医療の歴史も現実も,また戦前とはいえ長い間監督官庁にも在職して,公・私立病院の表裏を知り尽くしていた先生は,日本の将来の精神医療の発展は,政府や自治体に頼るよりも,民間病院の充実に期待する外ないと考えていたようである。先生の書かれた「二十年」(日精協発刊)の序文にも,行間にその意中を汲みとることができる。そうでなければ先生が協会の拡充のため専従職員一人すら居ない時期に,老躯に鞭打ち東奔西走,あれだけの情熱を燃やすはずがない。精神衛生法の制定には当時の植松慶大教授,林松沢病院長が主たる参画者であり,議員提出の法案として議会方面の工作には当時の参議員議員中山寿彦氏の尽力に負うところの大きかったことはよく知られた事実である。さまざまな紆余曲折はあったが,法案のでき上るまでの主役は金子先生であった。成文化された法の中には金子案の主要な柱は生かされている。現在,精神衛生法に対しては厳しい批判もあるが,敗戦の傷痕の未だ癒えない時期,連合軍の占領下という悪条件の中で,新しい法律の制定を企画立案し成功させるのは,並大低の労苦ではないのであり,数え立てれば欠点もあろうが,この法律が日本の精神医療史上に一時期を画したことに疑いはない。先生が自ら手がけた二つの大事業は立派に実を結んだのであって,天寿を完うされた先生の御霊の前に,私は今ここに,改めて跪きたい。
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