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私はいままでは大体において,精神と神経の状態の間にある区別を無視してきた。いまこれについて特に考えてみよう。Spencerがいっているように,「進化の理論はその純粋に学問的形態としては,その反対者がしつこくそうだと考えているようであるが,決して唯物論を含むものではない」ということをここで注意しておくのがよい。Spencerは唯物論的仮説など「全くとるに足らぬ」ものという。Spencer,Huxley,Tindallを唯物論者とよぶのはSir Joseph Listerを滅菌外科の反対者であるというのと同様に不条理なことである。Spencerはしばしば意識の状態と神経の状態との問の絶対約な区別を主張している。ここにその最も明瞭な言明がある。Spencerは精神と神経の状態の組み合わせがますます複雑になっていることを考慮したのちに,次のように記載している(Psychology,vol. i,p. 403):「もちろん私は物質の働きがそのように精神作用になるとは思わない」。その本のSektion 41-51,62,63でいわれているように,"我々はどんなに努力しても心と運動とを同化させることはできない"。私は単にある物質的な進化と,それに相関する心的進化の間に1つのparallelism(平行論)があることを示しているにすぎない。たとえ誰かが物質的なもの,即ち神経系統について完全に唯物論的であろうとしても,全く物質的でない心について唯物論的になれはしないのである。人間には心と体とがある。あるときには,ある1つのことをするという原理にたって,この講義では私はまず身体だけについて述べようと思う。人間はこれを物的にみれば,1つの感覚—運動のメカニズムである。特に私の主張したいことは最高中枢——心または意識の身体的基礎——はこの種の構造をもっており,その中枢は体のあらゆる部分の無数の異なった印象や運動を表示しているということである。しかしそれは極めて間接的に表示しており,ちょうど腰椎の拡大部(lumbar enlargement)が比較的に少数の限局された分野のみしかほとんど直接的に表示していないのと同じく確かなことである。最高の中枢は"心のために"(for mind)あるとは答えられるであろう。これを認めるといっても,それは,それらの中枢が心の物質的基礎を形成しているという意味においてであり,私は,それらの中枢が"体のため"(for body)にあるともいえるのである。もし進化の理論が真理であるならば,あらゆる神経中枢はすべて感覚—運動性の構造をもっておらねばならない。もし最高中枢が,より下級の中枢と同様に細胞や繊維からなっているようにこれと同じ構成をなしているとすれば,その最高中枢もまた同じ構造をもつと考えるのがアプリオリに正しいと思われる。あるレベルにおいて,我々がそれを進化の1つと呼ぼうと呼ぶまいと,ある突然の変化がいろいろの種類の構造の中心に入りこむのであればそれは驚異であろう。1つの神経系の最高中枢がより低い中枢より極めて複雑であることが,そんなに非常な相違であろうか?数年前に,私は次のような問題について尋ねたことがあった。即ち,いろいろいろな運動と印象とを表す過程からでないとすれば,心の器官はどのような"実体"(substance)からなっているというのか?と。そして印象と運動との時間と空間のうちで,より以上に相互に複雑に協調していることを表す部分としてより以外に,どのようにして,けいれんが低い中枢からくるのと異なっているといえるのであろうか?我々は,大脳半球が運動〔および感覚性〕の経路と根本的に異なった面において形成されていると信ずることができようか?(St. Andrews Medical Graduates' Reports,1870. 1巻 p. 26参照)。HitzigやFerrierの研究以来,けいれんは脳の中心領域(私はそれを中位運動中枢と呼んでいる)にその運動を表示していると認められてきた。特別な理由もなく,次のように問われることもあろう。即ち,何故に脳より前方の部分,前頭葉(私はこれを最高運動中枢と呼んでいる)がその運動を表示してはいけないのかと。事実,最近FerrierとGerald Yeo(Proceedings Royal Society, Junuary 24,1884)とがサルについての実験から,前頭葉がある運動を表示しており,特にそれらが眼球や頭の側方運動であり,あらゆる運動の中で最も代表的なものである(representという言葉の別の意味で)という結論を示したのである。これは最も有意義なことである。というのは多くのてんかんの発作(paroxysms)(その放電は最高中枢のある部分に始まるものであるが)が眼球と頭とを一方に向けることから始まるからである。そしてより意義のあることは,我々がBeevorの観察をよりよく憶えておくことであって,その観察というのは,てんかん発作後の昏睡の多くの症例において,眼球が,初期の発作のとき向いていた一側から,眼球が極めて一時的に横にそれることがあるという事実である。しかし一方でFerrierは,脳の前方部全体が運動性であるという点で私の考えに同意しているのであって,彼の言葉でいうと「精神的操作(mental operation)は最後まで分析していけば,結局は単なる感覚と運動の実体(substrata)になってしまうのであり」(大脳の機能),それは私が長い間真剣に主張してきたことであるが,また他方彼は運動中枢を中位の大脳運動中枢と最高の運動中枢と分かつ二とには同意していない。そしてFerrierは私が最高運動中枢と呼ぶものは,ただ眼球と頭の運動のみを表示しており,私のいうように身体のあらゆる部分の運動を表示しているとは考えていない。
更にくわしく説明するとなると,私は大部分,運動についてのみ述べなければならない。何とならばけいれんが印象(あるいは,不明確に感覚とか,感覚の結合した観念といってもよいが)を表示することは誰も否定した人はなかったと私は信じている。もし最高の中枢が運動を表示していないとすれば,普通のてんかん発作症状(epileptic fit)の現象は私には分からないものにみえる。更に私は,最高中枢は身体のあらゆる部分の印象や運動を表示していると考える。印象を無視してかかれば,このような立場は非常に色々と異なった証拠によって支持されるように私には思われる。
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