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I.序
村上によれば「強迫観念とはある観念がたえず頭にうかんできて,これを考えまいとしても抑止することができない状態」12)であり,また「強迫観念はほとんどすべて不安恐怖の感情を伴つており,それが前面に出ているものを恐怖症という。」12)ここに述べる患者もこのような意味において恐怖症の患者であり,彼には幼少のころより強迫症状が現われているが,強迫現象がすでに小児期に現われることは諸家の説いているところである。たとえばMayer-Grossは「強迫現象に関係のある一種の現象は思春期前の小児に往々みられる」6)と述べているが,これは正常の現象の項目のなかで述べていることであり,またつづいて「一般的にこのような子供の習慣は成長につれて消失し,後の人格の発展に大した意義をもたぬ」6)と述べている。Jaspersは「どの病いも年齢によつて変更を受ける」の項のなかで「児童期」として「神経性障害のなかには年齢による正常の心的諸性質の昂進とみなすべきものがたくさんある」3)と述べている。ここでヤスパースは直接強迫現象を引用してはいないが,小児の強迫現象についてもこのことは妥当するとみてさしつかえないと思われる。このように小児における強迫現象は正常なものであり,多くは後の人格の発展を妨げることがないとしても,強迫神経症は「その始まりは小児期に前兆としてみられる」7)(Bleuler)。本症例においてもこのことはいえる。または「強迫神経症を例に考えてみると生活史的に一種の進行が認められることがまれではない。……これは事実進行的な事象であつて,生物学的基礎をもつた病であろう。しかしわれわれが"人格の発展"に対して病的過程とよぶものはこの場合にはない」3)という。したがつてこれは了解可能な現象ということができる。しかしJaspersの"了解"はもともと実存の問題の前で立留る。「了解的認識を深めていくとわれわれは了解不能なものに迫つてゆく。了解関連のその時々の全体は了解不能なもののなかに基礎をおいている」3)「それは内部からみれば了解不能なものは一方においては生物学的に与えられた素質であり,他方においては"実存"としての人間の自由である」3)「この自由は認識や対象や探求可能な対象ではない。しかし心理学者・精神病理学者としてはわれわれは人間を探求の対象となるかぎりにおいて眺めるのである。現実におけるあらゆる了解可能なものをになつている了解不能のものをわれわれは生物学的なものと解しようと求める。」3)すなわちJaspersの精神病理学は本質上実存の問題をその対象としない。しかしJaspersの考えていた精神医学は実存の問題をみつめていた。「精神病理学者にとつては科学自体が目的である。彼はひとえに認知認識し性状を明らかに分析しようとするが対象は個人ではなく一般的なものである」とJaspersは述べるが,また「認識が失敗したときには探求者はもはや人間探求者として進む者ではなくなり,運命を同じくする人間とともにある人間として踏み入る場所が始まつたことを知るべきである」3)ともいつている。ここに「実存的交通」(existentielle Kommunikation)が生まれる。このとき「医師と患者は二人であり,それは運命をともにする伴侶であり医師はただの技術者でも権威者でもなく,実存に対する実存であり,他者とともに移ろいやすい人間という存在である。」3)そしてこの実存的交通において患者は自己の開示を確証する。これはTrübの「患者を全人間ganzer Menschとして"発見する"(entdecken)ためには精神療法家は彼とのpartnerische Beziehungに入つてゆかなければならない」8)「それはつまり彼との独自の出会いにおいて,彼をpartnerischに体験することである」8)ということばと一致する。
精神病理学における実存的人間学的方向に対する批判はいろいろとあるが,ここではふれない。ただここに述べる患者においても,面接中,中核に実存的問題があることが明らかになり,この問題の解決なくして真の解決はないと思われたのである。医師との交わりの中に彼の存在は共同体に開かれ,それとともに症状も寛解した。
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