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「今や血行動態の牙城は瓦解寸前の状を呈しているが,なお崩れんとして崩れず,その頂には,冠血流量と紀されたぼろぼろの旗がひらめいている。」これは,私が循環器の研究室に入門を許されて間もなく,輪読会で当番に当たって読んだRaabの総説の冒頭である。詳しい内容はあらかた忘れてしまったが,Raabはその中で,伝統ある,しかし老朽化した血行動態の城砦のみを至上,無二の研究目標として志向する風潮を嘆き,循環器病学にも新しい化学の目を導入することを主張していたと記憶している。以後,幾星霜,他の領域での疾病,病態の解析が臓器,器官のレベルから細胞,細胞内構造,更に分子のレベルへと進む間,循環器病学はその圏外に残されていた恨みがなかったとはいえない。もっとも,この間,循環器病学者も決して空しく手を拱いていたわけではなく,それなりの努力を払っていたのではあるが,分子病態学がまだ十分に熟さず,また,心臓,血管という対象自体もこの面からの接近を拒んでいたというのが事実であろう。
この歴史の流れを顧み,翻って数年前からの分子心臓病学molecular cardiologyと名づくべき分野での若い研究者の活躍をみると,まさに今昔の感がある。心肥大と癌遺伝子のつながりなど,かつて誰が予想していたであろうか。循環器病学にも新しい時代,Raabが期待していた時代が来たかという思いを深くする。近年では,分子心臓病学は循環器病学における重要な柱のひとつとして確固たる地位を占めている。本年3月の日本循環器病学会学術集会では,「循環器における分子医学」についてのシンポジウムが催された。また,奇しくも,ほぼ時を同じくして,Journal of American College ofCardiologyの2月号には,American College of Card—iology設立40周年記念事業の一環と銘打ってMolec—ular cardiology: New advances for the diagnosis andtreatment of cardiovascular diseaseと題する総説が掲載された。両者が取り上げている話題はほぼ共通であり,心筋細胞の受容体,カルシウム転送,心肥大,血管の収縮と緊張,LDL代謝異常と粥状硬化などが論じられている。
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