Coffee Break
見る 9.他人の顔
長廻 紘
pp.1507
発行日 2013年9月25日
Published Date 2013/9/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1403113952
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見なければならないのは外見ではなく内面.わたしとは誰か,なにものであるか.最も見えにくいのは自分自身.火は火を焼くことが,水は水を洗うことができない.そのように目は目を見ることができない.すなわち,目で見るということの根本には,自分を見ない,見ることができないということがある.見ようとすればするほど逃げ水のように見えなくなる.「道眼被眼礙」.真実を見る目が眼球に妨げられている.鏡に映った姿と,真実は関係ない.自己は鏡に映ったものでないとすれば,どうやって自己を見ることができるか.「いかにして人は自己を知りうるか.観察によってでは決してない.行為によってだ.汝の義務を果たすようにつとめよ.そうすれば汝がなにものかがたちどころに顕らかとなろう(ゲーテ)」.
われわれは常に自己とは何かと自問自答しながら生きている.問いや疑問が起こらないような人がいるとも思えないが,答えの出しようがないので年を重ねるに連れ,いつの間にか忘れてしまっている.それでもなにかの拍子に,挫折を味わったとき,病の床にあるときなどに,顔を出す.自己とは何かという問が生じることもなく,答えを持たないまま彼岸へ行くのは淋しいことである.答在問処.問いのない人生は,そもそも存在しないのと同じ.自己とはなにかと問い,それに答える.その答えからまた問いが生まれる.問いを出し,それに答えるキャッチボールによって人は前へゆく.問題は如何なる問いを出しうるか.根源的とも言うべき自問自答が生まれるのは,本当に生きた人の特権である.
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