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市川 本日はお忙しいところを…….川島先生は,このたびの世界消化器病学会の会長として,非常に立派な会をお開きになり,わたしどもは華やかな会を持てたわけですが,そのお話は後でお伺い致しますが,学会の発展と医療制度の変化とともに歩んで来られた先生の戦前から今までに至る御苦心談をおききしたいと思います.まず手初めに,お若かったころの研究のお話を少しおききしたいと思いますが.
入局の頃
川島大学を出たのが大正12年ですから例の関東大震災のあった年ですが,そのころ稲田先生がまだ潑刺として働き盛で,外国に2度目の旅行をなさって御帰朝早々,Berlin大学Bergmann教授のシステムなどを医局に取入れられて,専門別に研究systemを作られ,その制度下で医局一同張り切り,競って非常に勉強いたしました.顧みますと当時東大3内科のうち,一番おそくまで勉強した教室でした.大体午後7~9時ごろ帰る人は早い方で10~11時過ぎないと帰らない連中が,半分くらい医局におりました.わたしはそのころ,先輩方から頼まれたことはなんでも引受けてやって見る決心で,当直も研究参加も悉く引受け,人の2倍くらい働かして頂きましたね.そのころ初めには,茂在先生(今,中尾内科の茂在先生の父上)の血清蛋白,引続いて血清のミネラルの変化のお手伝いをしました.そのころ蛋白質,ミネラル,水代謝,植物神経系統の研究が始まった頃と思いますが,その茂在中心のグループが,6,7人おりました.又そのミネラルの仕事に関連してヒペルベンチラチオン・ス・テタニーの際の血清の酸塩基平衡の問題にとり組みました.その時分に佐々(貫之)先生のムスケル・トーヌスの仕事の手伝い,田宮先生のカルヂオ・スパスムスの実験的研究を致しましてね.
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