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旅行医学は,ロマンを感じさせる分野である.人はもとより生物は移動することで進化発展してきた.歴史は人や物質の移動により形作られ,意識せずとも,移動することにより現代の生活や社会が成り立っている.旅行医学は,大航海時代にその源を発し,強国による帝国主義や植民地運営と共に発展したが,現代では,その主体は国家ではなく個人である.移動のスピードは数十年前とは比較にならない.紛争やテロ,災害によって,保健事情はあっという間に地域ごと塗り替えられる.旅行医学は,新しい技術の登場,時勢,新興再興感染症などにより,日々ダイナミックに変化する.
わが国において旅行医学に関する議論と実践が始まったのは,欧米諸国に比べ,ごく最近のことである.本書は,わが国の旅行医学を牽引するセンターの一つである,国立国際医療研究センターに集められた若手の感染症専門家の厚い層によって書かれ,プライマリー・ケアの現場での旅行医学の実践を手取り足取りガイドする実践書である.同センタートラベルクリニックにおいて蓄積されたノウハウが,実地医家の視点で提供されている.旅行医学を単に渡航前後相談,ワクチン接種や予防内服に限局せず,国際保健すなわちグローバル・ヘルスのレンズを通して捉え,大きな視点から個々の症例を実地医家がどのようにマネジメントするかを論じている点が新しい.例えば,メディカル・ツーリズムなど海外で医療を受けた患者が国内で入院する場合,海外の医療施設で流行している多剤耐性菌が持ち込まれる可能性があり,国際的な流行状況の視点,病院や地域での視点,個々の患者や家族の目線での視点でのマネジメントについて実践的に触れられている.タイムリーであるウイルス性出血熱は,その歴史と国際的な対策を俯瞰したうえで,既存の国際的な対策努力に沿いつつ,あくまで実地医家の視点で対応の方法がきめ細かく親切に述べられている.旅行医学に関する資料の要であるマラリアや下痢症は,コンパクトにまとめられ,各疾患のセクションに,「これなら自分(で)もできる(かも)」と思わせる親切丁寧な「診断・治療のフローチャート」が必ず掲載されている.国際的な標準に照らして実施することが国内では難しい分野があることを認めたうえで,その代替策がきちんと明示されている点も評価したい.しかし,本書の肝は,各病態・疾患の説明が終わった後半のII章「トラベルクリニックマニュアル」から始まる.各地域別への渡航先別の予防・対策がコンパクトにまとめられ,診療間のアンチョコとしてさっと目を通すことができる分量であり,編集に工夫がされている.ワクチン接種のうえでのちょっとしたコツが散りばめられ(例:妊婦に対するインフルエンザワクチン・百日咳ワクチンの考え方,B型肝炎の接種が途中で終わっている場合はどうすればいい?),旅行医学はプライマリー・ケアであるとの哲学が貫かれている.巻末には特殊な感染症を疑う場合の相談先リストが掲載されており,病院に勤務されている医師にとって,医療機関同士のコネがない場合は大変有用であろう.またわが国において,国際保健規則(International Health Regulation:IHR)を知っている医師がどのくらいいるであろうか.IHRは世界保健機関(WHO)憲章に基づいた国際規則であり,加盟国が足並みを揃えて,感染症の対策や危機管理に参画するための枠組みである.1951年に制定され,2005年に抜本的な改訂がされた際,日本は大きな貢献をした.我々医療者は,国際的な感染症対策の枠組みにすでにコミットしたうえで疾病対策に関わっている一員であることを,改めて認識したい.
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