ずいひつ
"なれる"ということ
佐藤 昌康
1
1熊大第2生理
pp.978-979
発行日 1968年8月10日
Published Date 1968/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402202335
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失われた少年の日の感動は…… 少年の日の私には常に新鮮な感動と目を輝やかす驚きがあった.しかし今の私にはそれが少なくなってきた.あの子供時代の素朴で美しい感動がなつかしくも羨しい存在であるような年齢になったのかもしれない.
美しい海浜の村に幼年期から少年時代を過した私にとって,自然はいつも何かしらの新鮮な感動を与えてくれた.梅雨時になると,きまって台所の流しを支えている黒ずんだ木材に,そこだけが薄暗い20燭光の電灯の光がとどかなくなっていて,いっそう何か湿った感じをしている場所なのだが,背中に小さな灰色の反射光をせおった大きなナメクジがあらわれ,キラリと光る1本の道を残してしんと静まりかえっていたのを記憶している.私はそれをみつけると,この大きなナメクジの足跡をたどることにしばらく熱中することに満足を覚え,次には今まで大事にとっておいた一番うまい菓子に手を出す時のような決意をもって,そっと灰色と褐色の縞模様をつけたナメクジに指をのばす.そしてあのつるりとした冷たい粘っこい感覚に一瞬たじろぎを覚えて反射的に手を引込めてしまう.その時私はもうすぐ目の前に近づいた夏を知ると同時に,背筋をつらぬく戦慄にも似た感動を味わったものである.それは毎年のことながら実に強烈な感覚であり,おとなになって知った疼くようなあの熱い感動に似たものであった.
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