特集 戦後30年の公衆衛生と私
30年の軌跡
安倍 三史
1
1東日本学園大学
pp.536-537
発行日 1977年8月15日
Published Date 1977/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401205424
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■中国医科大学に公衆衛生学部を創設--
私の30年は,中国の5年(1948〜52)と日本の25年(1953〜77)から成り立つ.前の5年は後の25年に大きく影響した.ソ軍から中国側に引き渡された私は,中国医科大学(旧満州医科大学)に公衆衛生学部を創設させられた.前からの私の夢でもあったので積極的に行動した.構成は疫学,環境衛生,栄養,母子衛生,学童保健,労働衛生,農村衛生,衛生教育の8講座だった.36名の教員(日本人・中国人)は専科(公衆衛生200名)と副科(臨床各科800名)の教育に追われて,研究どころではなかった.環境衛生は,三浦運一教授の残した機器・標本・図書を利用した.小松富三男,永田捷一の名のノートもあった.私は労働衛生を担当し,教務長を兼ねた.教学の思想は「予防を先とし治療を後とする,そのためにもソ連医学を学べ」ということであった.ソ連から公衆衛生の専門家が6名きたが,学生と教員との激しい対論に抗しきれずに,いつか消えた.鞍山製鉄所,撫順炭鉱,大連工場の臨地訓練に油汗を流したが,私の人生にとって大きなプラスとなった.思想が悪いとレッテルを貼られた私だったが,毛沢東の『実践論』と『矛盾論』には心を惹かれた.「調査なくして発言なし,対案なくして反対なし,行動なくして理論なし」の文句は,今も頭に残っている.魚には海が見えないように,日本にいて日本が見えなかった私にも,12年の辛酸の中で日本を見る目ができた.
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