特集 公害に挑む
公害を予測し拒否した住民運動—沼津市・三島市・清水町の場合
西岡 昭夫
1
1三島北高等学校
pp.275-278
発行日 1971年5月15日
Published Date 1971/5/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401204255
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星野医師が静かに話す"公害とは"に耳をかたむけた人びとは,つぎは"今の工業開発がそのまま続けば,日本中に公害病が風土病としてはびこるようになる"と大声で,10数枚の手製の公害掛図の前を往き来しながら説明を続ける宮治医師を目で追う.愛鷹山麓の宮内医師は,とうとう硫酸をガーゼにぶっかける実験を人びとの面前でやって見せた.海に近い香貫に住んでいる望月医師は,横浜視察報告を魚市場の関係業者の大会で語ったが,その会場では石油コンビナートに建設反対の決議が出されていった.沼津市の西はずれの酒井医師をはじめとする各地の医師は,学習会場づくりや,住民組織づくりに活動している.16万人の市民が,かつて見たことのない医師たちの行動である.
"公害は全く考えられない"との大見出しで飾った県民だよりが配られてから2カ月,この医師たちの真剣な表情の中から,これは何かあると危険を見取った市民は数多くあろう.三島から始まり,沼津では火力予定地の下香貫地区の工業高校の教師らを講師とした学習会がおこなわれていたが,星野医師らはすでに公害関係文献を全国の大学や研究機関あるいは保健所に依頼し,集めはじめていたのである.そしてそれが「大気汚染に関する文献抄録並に当地区における公害問題の資料」となった.名大水野,三重大吉田各教授らも医師会へはもちろん,市民に対しても警告的公害講演をやってくれた.
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