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エドウィン・チャドウィックの業績とその今日的意義(2)—行政改革を中心として
橋本 正己
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1国立公衆衛生院衛生行政学部
pp.100-107
発行日 1970年2月15日
Published Date 1970/2/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401204029
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V.救貧法から公衆衛生へ(1838〜1847)
いわゆるFever Report(1838)チャドウィックが正式に救貧法委員会を去るのは1847年9月であるが,すでに触れたように1847年には彼は委員会内部ではT. F. レヴィスと決定的に衝突し,外では救貧法反対とチャーチスト運動の矢面に立って,事実上救貧法の運営からは閉め出されていた.また彼が公衆衛生法成立により,中央衛生局The General Board of Healthの委員に正式に任命されるのは1848年9月であり,この間約10年間彼は救貧法委員会に在籍のまま,実質的には公衆衛生運動の推進力としてsanitary reformの道をまっしぐらに突き進んだのである.チャドウィックが疾病予防問題に全面的に没頭するようになったのは1838年であり,その契機は1837〜38年のロンドンにおけるインフルエンザとチフス流行に際し,彼が正式に上司の許可を得てロンドンの衛生状態に関する調査を行なったことである.
この調査の目的は,首都における予防可能な疾病の有病率および原因を究明することにあった.彼は調査の一部を連合教区の医師たちに委ね,その残りを彼が予防医学のパイオニアと考えていた3人の医師に委ねた.
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