三木行治岡山県知事追悼記事
岡山県知事としての三木行治先生/三木さんを偲ぶ
大森 誠
1
1元:岡山県衛生部
pp.654-655
発行日 1964年11月15日
Published Date 1964/11/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401202938
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9月21日夜半,三木知事急逝の悲報に接し,耳を疑い,息をのむショックを受けた。フィリピンのマニラで,マグサイサイ賞受賞という人生最良の日から,僅2旬,心筋硬塞の発作で仆れられた。人生無常,正に劇的終焉であった。生涯独身を通され,人一倍母思いの先生を回想して,独り暗涙をのんだ。
三木知事と同郷の私は岡山中学,六高,岡山医大の2年後輩であり,衛生行政の畑で共に働き,三木先生が知事に就任当初より,衛生部長として11年間お仕え出来た事は,浅からぬ因縁であった。若い日の三木先生の想い出はつきないが,当時から座談の名手で,独特軽妙な比喩は万座を笑倒させた。春風の様な心の三木先生の周囲には友人知己が常に集って居た。若冠30才の頃,三朝に岡山医大の温泉研究所を,本島に大学の臨海実験所を,相次いで創設された手腕は,晩年の活躍の片鱗を伺うに足るものがある。昭和26年4月,厚生省公衆衛生局長から岡山県知事選挙に立たれ,自由党の現職知事を相手の戦は県政史上空前の激戦であった。圧勝の結果,知事に当選された事が生涯をきめる大きな山場となった。教育と衛生と産業を三本の柱に,県民のしあわせに奉仕すると云う,選挙スローガンが爾後14年間,着実に実行された。専門の公衆衛生の仕事は枚挙にいとまがないが,昭和28年第8回公衆衛生学会は空前の規模と云われ,吉備水道赤痢集団発生,粉乳砒素中毒事件の処理には昼夜を分たず,率先垂範された。
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