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黒水仙を見て—映畫評
懸田 克躬
1
1順天堂醫科大學
pp.250-251
発行日 1951年4月15日
Published Date 1951/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200835
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この「黒水仙」という映晝には,専門的の立場―技術的な面以外に,映晝の專門領域などというものはないだろうと思うが―からは,いろいろの問題があるであろう。しかし,編集者から課題として與えられたような「精神衞生」的な問題を考えるのに適當な映晝かどうかは問題のようである。内容的には,精神醫學誌の眼から,特に問題になる作ではないようである。もちろん,映晝としての良否と,われわれのいう問題の有無とは領域を異にした事柄であることはいうまでもあるまい。
しかし,この書面の美しさは類ないくらいである。おそらく,この映晝の作者には,物語の筋の面白さ,または,このスートリーの内容の投げかける問題を追求するというよりも,この原作から,あの高いヒマラヤの高原がイメーヂとして晝かれており,これをセツトとテクニカラーで表現してみることに,第一の興味をひかれたものではないであろうか。いつてみれば,この映晝では,何をいおうかというwhatは問題ではなくて,さまざまの意味の美しさ──自然の姿もあり,人の姿もあろう──をどのように表現するかということ,howにこそ問題があつたのではないかと思う。「蛇の穴」や,「失われた週末」などが,問題になるというような意味での問題はない。問題がhowにあるのだとするとこの映晝には非常な物足りなさがある。それは臭いのない世界であるということ。きつと,この映晝の作者が大きい意味をもたせたに違いない。
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