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キヤンベラ便り
纐纈 敎三
pp.144-145
発行日 1953年12月15日
Published Date 1953/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.2425905754
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オーストラリヤ國立大學生理學教室のVisiting Fellowとして五月中旬オーストラリアの主都キヤンベラの街に參りまして以來,早くも四カ月になります。出來るだけ早くこちらの樣子を,日本の皆樣に御報告したいと思いつゝも,馴れない日常生活に追われ,つい今日まで失禮してしまいました。最初こちらに着きました時は,戰後最初の日本人留學生だと云うわけで,人々に珍らしがられ,色々と歡迎を受けました。それ程オーストラリアには日本人が少いわけで,現在のところこちらに來ている日本人と云えは,日本大使館員と,メルボルン,シドニー等に短期間止まつている羊毛關係の業者,それに所謂戰爭花嫁ぐらいのもので,全く淋しいものです。この點アメリカとは大いに異つていますが,そこには日濠間を隔てゝいる色々と重要な,吾々日本人にとつても,もつと考えねばならない問題がある樣な氣がします。日本を出る時に心配していたオーストラリアの對日感情と云う點につきましては,少くとも私の感じた範圍では杞憂に過ぎませんでした。
今までのところ,この點でいやな思いをしたことは一度もありません。而しなんと云つてもオーストラリアは未だ未開の國であり,廣い土地を少數の人口で維持していると云う現實が,色々の面で色々な問題となつて現われて來ている樣に思われます。
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