巻頭グラフ この時この一葉
63通りの名称—「規則」制定前夜の保健婦活動
山根 信子
1
1看護史研究会
pp.490-491
発行日 2000年6月1日
Published Date 2000/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661903477
- 有料閲覧
- 文献概要
1923(大正12)年の関東大震災を契機として,巡回診療,訪問看護活動が官民を問わずその基礎を固めた.その後訪問看護事業は,国の「健民政策」もあったが,地域住民のニーズに応えるかたちでさまざまなスタイルに発展していく.それを象徴的に示すのは,この事業に参加したナースたちの呼称であった.1941(昭和16)年の「保健婦規則」の制定で「保健婦」という名称に統一されるまで,実に63通りの名称(昭和15年厚生省衛生局調べ)が使われていた.
訪問看護事業が展開された初期には,臨床経験が豊富なナースが活動を先導していたので,訪問看護婦,衛生看護婦,巡回看護婦(または指導婦),社会事業保健婦などと呼ばれていた.やがて,時代を反映する,応召軍人家族巡回保健婦,軍事援護事務嘱託,銃後保健婦,出征軍人遺家族保健衛生婦,出産相助組合産婆など,活動のスタイルに応じた,というか利用者側にたった名称が川いられた.この「保健婦規則」制定前夜の保健婦活動の一例を紹介しよう.
Copyright © 2000, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.