連載 助産婦職能の変遷を探る・23
「受胎調節」ヘの到達行程
大林 道子
1
1東京女子大学短期大学部
pp.442-447
発行日 1987年5月25日
Published Date 1987/5/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611207143
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1951年10月26日。受胎調節が初めて国策として取り上げられた"記念すべき日"である。
厚生大臣就任直後,慣例の直属機関視察のため国立公衆衛生院を訪れた橋本龍伍氏は,院長古屋(こや)芳雄氏に「あなたは人口問題を研究していられるそうですね。しかし僕は人口政策なるものが大きらいでして…」と挨拶する。毒気を抜かれた古屋氏は,当時,激増しつつあった人工妊娠中絶を大臣はどう考えるのか問い返し,いろいろの統計資料を見せる。そして,その少し前に産婦人科学会が行なった「人工妊娠中絶の障害に関する調査」の結果を示した。39,550件の中絶例中119人が病気となり,87人が死亡していたのである。
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