母もわたしも助産婦さん
大きな力がほしい
野中 田鶴子
1
1福島県立会津若松総合病院
pp.31
発行日 1966年2月1日
Published Date 1966/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611203128
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「田鶴子,早く起きて.すごい出血,○○先生に連絡して至急きてくださるように言って」とこれだけ慌しく言うと母は産婦の部屋に,とんでいってしまいました.夕方,入院してきた産婦さんで,胎児娩出後に胎盤癒着による弛緩出血をおこしたのです.眠気もどこかにとんでしまい,ダイヤルを回しながら,ふっと空しい気持になってきました.用件を言い,床にもどりながらいろいろの考えが頭を去来します.
私の母は開業助産婦です.時代の流れに伴って産院を開いたのが今から6年前ぐらいになります.戦時中,満州に渡り,不自由のない生活から敗戦となり,私たち姉妹二人を抱え,苦しい避難民生活の末無一文で引揚げてきて,生活を支えるために今の仕事を始めました.ちょうど小学校にあがる時期であった私は,栄養失調や肺炎腎炎などの痛みあがりで,母の背に負ぶわれ,雨の日も風の日も通学しました.一つ違いの妹はいつも家で留守番でした.そして父は職さがしに…….四畳半一つの狭い長屋住いから始めた仕事でしたが,母の骨身おしまず働く仕事ぶりにしだいに人びとの信用を得,仕事は波に乗ってきました.そのうちに父も今の公務員の仕事がみつかり,やっと生活らしい生活ができるようになり,10年の長屋生活の後,人びとの好意により現在の家を建てて移り住みました.夜,誰かが診察にくるとご飯を食べていれば中止し,寝ていれば起こされ,診察がすむまで外に立たされて,冬の寒い日などつらい,悲しい思いを何度してきたことか.
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