随筆
なきごえ
春 三
pp.43-44
発行日 1960年8月1日
Published Date 1960/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611201968
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桜も散つた,春宵はねむい,夢うつつに過ぎし日の分娩当直のねむい早暁に「児は単胎にして奇形なし直ちに高声に啼泣す」と,いつものきまり文句の産婆復習生の出産報告を想い出した.さて,啼泣と云えばいかめしいが平易に云うと泣くことである.一般に泣くというのは何か不吉なことか,苦脳とかを連想するのであるが,娩出した新生児の場合だけは大きな声で泣くと,みんなが喜び,安心も大きいものなのである.しかし,ただ泣くと云わないで啼泣というのはただ泣くのと娩出直後の泣くのとではその意義の違いばかりでなく泣き方——音色が違うから「啼泣」と云うものなのであろうか? 生れおちた赤ん坊のオギャーオギャーと泣く声はかん高く忙しいようでどこで聞いても「生れたな」とすぐわかる声で分娩後20〜30分して,泣く赤ん坊の声とは全く異つている.考えてみると娩出児が胎児として母体の胎内に居る間は胎盤臍帯を通じてだけ,母体から酸素の供与をうけていたのであるが,生れてからは自分の気道から空気中の酸素を吸わないと自らの生命を断つことになるわけであるから必死に啼泣しつづけ,所謂"弧々の声"としてみんなに知られているものである.
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