恩師の頁
機構を改善すべきとき
佐久間 謙信
pp.28-30
発行日 1952年9月1日
Published Date 1952/9/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611200178
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二十数年の久しい間,経営していた東京助産学校は,昭和20年春の空襲で跡形もなく燒失した。また文京区元町にあつた自宅も戰罹にあつて,現在は都心を去る10里近いこの田舎じみた所に,悠々自適という生活を続けている。お蔭さまで近頃は健康もどうやら保つているが,よる年というか,耳が遠く,人樣とお話しをするのに,時にトンチンカンなお答えをすることがあるので,大変失礼しているわけです。
私が,神田の三崎町に助産学校を開校した当時は,東京府の指定学校みたようなわけで,卒業生は春秋二季に出して,府で産婆試験を受けたのであつた。当時は自分の学校の近くに水原博士が,産婆養成所を開いていた関係から,生徒はいつも水原さんの学校に劣らないようにと,競爭心にもえていた。そのためか,東京府で受験する場合には,常に合格率が良く100人受ければ80人以上は合格したもので,水原さんからは羨望されたものであつた。
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