理学療法草創期の証言
「無知の無知」から「無知の知へ」―恩師に導かれて
武富 由雄
1
1神戸大学医学部保健学科
pp.485
発行日 1995年7月15日
Published Date 1995/7/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1551104334
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草創期の理学療法士の名称資格取得までの証言は,私の大阪大学医学部附属病院の人事記録にまさしく示されていた.1951年に整形外科マッサージ室に“研修生”として入局,1953年には“雇”として採用,1957年には雇の名称が“技術員”と改められ,1962年には“文部技官”に,そして1972年に“理学療法士”の名称が初めて記載されていた.
1960年,水野祥太郎博士が大阪市立大学から大阪大学医学部整形外科教授として就任され,整形外科内にリハビリテーション旋風が巻き起こった.“リハビリテーション”とよぶカタカナ英語や“機能療法”など耳新しい学術用語が飛び交うようになった.広々と使われていた教授室が一転して運動療法室に変身した.それまでは,整形外科手術後の後療法や小児麻痺(ポリオ),先天性股関節脱臼,筋性斜頸,そして先天性内反足などに対して,徒手を手段として治療を行っていたが,身体運動が主な治療手段にとって代わった.
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