コーヒーブレイク
疫病の物語
鈴木 晃仁
1
1慶應義塾大学経済学部
pp.424
発行日 2011年6月1日
Published Date 2011/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1543103165
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ある地域に住む者たちが同じ病で数多く斃れる「疫病」という現象は,創作であれノンフィクションであれ,数多くの名作の対象になってきた.17世紀のロンドンのペストを描いたデフォーの『ペスト』や,20世紀フランスの小説家であるカミュが描いた『ペスト』などは,小説の主題そのものが疫病であるし,日本では石牟礼道子の『苦海浄土』を傑作としてあげることができるだろう.
ヨーロッパの疫病の描写に決定的な影響を持ったのは,トゥキュディデスの『ペロポンネソス戦史』に描かれたアテネの疫病である.歴史叙述というものを生み出した古典が,ヨーロッパ文明の輝かしい模範となった都市を壊滅させた疫病を,ヒポクラテス派の文体をまねたともいわれる緊張をみなぎらせた文体で描いている.傑作でないわけがないし,現在,翻訳で読んでもその迫力を失っていない.特に背筋が凍る思いをするのが,疫病によって人間社会の基本的な関係と道徳が破壊され尽くす有様を描くときの描写の仕方である.アテネの疫病はあまりに猛毒なので,人間の死体を喰った犬も鳥もまた斃れ,死肉を喰う鳥獣がアテネから姿を消したほどであったという.死者の死体が埋葬されず,犬がそれを貪り食うというのは,疾病のすさまじさを表現するたとえであるが,そのような比喩的な状況を現実は超えていたというのだ.「犬が死体を貪り食う」どころか,「死体を貪り食う犬すら死に絶えた」という記述は,誇張的な比喩を超越した凄惨な現実が出現したということであり,アテネが滅んでいったという事件を象徴する劇的な効果をもつ記述である.
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