連載 アーキテクチャー×マネジメント・22
南三陸病院・総合ケアセンター南三陸
須田 眞史
1
1宮城学院女子大学生活科学部生活文化デザイン学科
pp.744-749
発行日 2016年10月1日
Published Date 2016/10/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541210330
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
■東日本大震災の被害と南三陸病院設立の経緯
表1に東日本大震災後の南三陸病院の変遷を示す.南三陸病院の前身となる公立志津川病院(126床,うち療養病床50床)は,海からわずか400mの平地に立っていた.東日本大震災の津波により,全壊流出,多くの犠牲者を出した(図1).医療機関が壊滅状態にある中,イスラエルより派遣された医療チームが,高台のため津波被害を免れた南三陸町総合体育館「ベイサイドアリーナ」駐車場にプレハブの医療センターを建て,2011年3月29日〜4月10日まで医療支援を行った.イスラエル医療チーム撤収後,残されたプレハブや医療機器を使って,公立志津川病院仮設診療所として運用を開始した(2011年4月15日〜2012年3月31日).電源は自家発電,給排水設備なしのため水はポリタンクで賄いながら外来診療を行うものであった.2012年4月1日に,同じベイサイドアリーナ駐車場に日本赤十字社からの寄付により公立南三陸診療所を開設した(図2).こちらも外来診療のみであったが,給排水,電源設備などが整い,CTも使えるようになった.
一方,入院設備では,被災により町内に入院機能が全くなくなってしまったので,既存の建物で借用できるものがないか探した結果,南三陸町から西へ車で約50分のところにある閉院となった登米市立米山病院の建物を利用して,2011年6月1日に臨時の公立志津川病院(39床)を開設した.
Copyright © 2016, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.