人
成田騒動時の見事な采配は昔の杵づかか—成田赤十字病院院長 渡辺進氏
小野田 敏郎
1
1佼成病院
pp.16
発行日 1976年8月1日
Published Date 1976/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541205969
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成田空港の建設で大騒ぎがあったとき,続発する負傷者を成田日赤に収容し,適応ある患者をヘリコプターで東京に移送した——あのあっぱれな措置は,砲煙の間司令部付として働かれ,武運つよく帰還ののち陸軍軍医学校の教官として軍陣の診療体系管理について教鞭をとられたその昔の杵づかによるものと拝察をした.千葉大学高橋外科から陸軍に進み,戦後国立山形病院長を経て古河鉱業足尾鉱山病院長に就任,この時代硅肺結核の研究からその予防を確立する仕事をされた.
恩師の初代院長の後を継いで成田赤十字病院の院長になられてから18年間,物心ともにこの病院の今日を育成された.さる年,千葉県の病院視察旅行でこの病院を見学させていただいた折,空港に予定されている三里塚御料牧場にご案内をいただいた.亡き橋本寛敏先生がご紋章の輝く馬車に乗られ,渡辺院長が鞍上ゆたかに騎馬で広い牧場を回られた.それは陸軍大御所の御曹子の氏が名匠遊佐幸平氏に師事し天覧馬術に選手将校として吹上御苑に出場されたその姿であった.日本病院会常任理事,日赤院長連盟副会長.俳句をよくし論愚と号す.かねて伝統ある軍医団雑誌の編集長をなされたが,いま新生日本病院会雑誌の編集委員長をされる.これも昔とられた杵つかというべきか.
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