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1873(明治6)年に山形県天童村で創設された私立病院は,翌年移転・移管され,現在の山形市七日町で山形県公立病院として開院した.1876年8月に初代の山形県令に就任した鹿児島出身の三島通庸(1835-1888)は,県公立病院本館の新築を計画した.1876年に東京医学校(現 東京大学医学部)から転任した病院長の長谷川元良(1835-1896)と県官吏の筒井明俊に,三島県令は1877年,東京・横浜の病院を視察させ,筒井は新病院の設計図を完成させた.1878年2月に鹿児島出身の大工棟梁 原口祐之はこの設計図をもとに,七日町で山形県公立病院本館の新築工事に着手し,9月に1階がドーナツ型の病室・外来で,尖塔,バルコニーを持つ3階建ての特異なデザインの病院本館が竣工した.三層楼と呼ばれ,病院は済生館と命名された.
こうして山形県公立病院済生館は,1879(明治12)年1月8日に開館した.三島県令は1880年9月にウィーン大学医学部を卒業したオーストリア人医師アルブレヒト・フォン・ローレッツ(Albrecht von Roretz, 1846-1884)を金沢医学校から山形県公立病院済生館医師兼山形県医学校の教頭として招いた.これより先,1874年に山形県公立病院医学寮で,洋医養成が開始されていた.ローレッツはこの病院・医学校で,母校で習得した医療と医学教育を行った.1882年に三島通庸は福島県令として転任し,ローレッツは同年7月にオーストリアに帰国した.地方税をもって医学校の経費を支弁してはならないとする1887(明治20)年制定の勅令48号により,山形県医学校は翌年廃校となった.県公立病院済生館も,1888年に私立病院となり,1904年に山形市立病院済生館になった.そして戦災にも遭わず,現在も七日町で運営されている市立病院本館として利用されてきた.1960年代に至り,老朽化のため,いったんは取り壊しが計画された.しかしながら,市民から保存するべきだとの声があがり,1966(昭和41)年には擬洋風建築物として,国の重要文化財に指定された.
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