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開業していると一応診療時間は定められていても時間通りのことはまずありえない。早朝や真夜中に急患で起こされたり,診療時間前に手術をしなければならない場合もあり,日曜日でも入院患者の処置をするという具合で,診療ばかりでなく下水のつまつたのから消毒器の破損,従業員同志の人間関係と,数えればきりがない忙しい日常の仕事に追い回されていても,時にふと心に浮かぶことは何であろうか。
「開業医の仕事」というと毎月の収支の計算や医療設備資材の改善とか税金問題,保健問題,従業員の待遇の問題,さらに進歩していく専門医学の吸収など,どれ一つを取つてみても重要な問題ばかりである。「開業医の社会的地位」について考えてみても,経済的に優位であることにこしたことはないが,ただ単なる金儲主義だけでは社会的地位も向上しないと思われる。旧年菊の季節のある会合の帰途,やはり耳鼻科を開業している友人から勲章の問題について話しかけられたことがあつた。「経歴や政府機関の仕事の関係で例外的には勲章を持つておられる開業医の方々を知つてはいるが,われわれにはどんなに苦労し,心配して患者を治しても勲章は頂けないね」と話し合つた。日頃考えてはいたがその時も私は果たして「開業医の勲章」に匹敵すべきものは何であるべきかを考えてみた。医療報酬のごとき金銭的なものではなく,もつと次元の高いもの,たとえば患者や患者の家族からの感謝の念とか,困難な診療が成功した時の職業的満足感とかいうように金銭では売買取引できないもののように思われた。今からすでに10年位前の古いことになるが読者の中でもご記憶の方もおられると思うが,フランスの耳鼻科の老大家のボルトマン教授が東京で講演されたことがあつた。薬草の話や喉頭癌の手術の講演と同時に「医師は患者の病気を治すことができない場合もあるが,それでも患者の心を慰めることができる」と話された。この経験豊富な老大家の教訓を私も医師として忘れることができない。
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