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鈴木弘道君は私と偶然明治32年9月から9カ月間陸軍軍醫學校から專攻學生として皮膚科へ派遣され介補の資格で醫專に這入つたのである同君は歌人鈴木弘恭大人の1人息子で和歌を少しはやつた無邪氣な天眞爛漫の性格で樂天家であつた實際私よりは醫專でも勉強をしなかつた私が師團の直屬上官が八釜師屋でのんびりした事がないと話すと,己れの處の高級醫官は至極好い人で一所に遊びに行く位だから小言など喰つた事はないよと得意であつた。其隋性でもあるまいが,在局中にも先生から受持の患者の事や外來診療なぞで先生から尋ねられる場合は特に吃言で大に椽面棒を振るつて後に小山田君から揶揄されてる者の第1人者であつたが,然し直接先生から叱責された事は記憶になかつた。
塙繁彌太君は或時先生が地方の講筵で遺傳梅毒に就で感銘すべき談論整然たるに感憤し就て學ぶべき師は是なりと直接先生の門を叩き指導を願つて快諾を得明治33年から先生の家に寄寓しつつ約1年間皮膚科醫局員として見學されたが,之は局員と云う名のみで先生の宅診の方に努力されていたのが,先生の推薦に依つて獨乙ベルンのヤダッソン師の許に留學された白癬菌や免疫性研究をした歸朝後,奉天醫院に奉職教鞭を執られたと記憶する同君は先生の側近で最も私淑した經歴は一番であろう。日本ばかりでなく,歐洲に於ても能く身の廻りまで何呉れとなく世話して上げる時代があったようだが,隨て先生の生活役としては表裏共洞察していた。その永年の經驗から臨床方面にも大に要領を呑みこんでいたようだ。談話なぞは一言にして云えば,明け放しと云った調子で卒直で交際上にも世話のない人だった。後年郷里鶴岡病院の皮膚科醫長として働き,辭任して自宅開業されていた私の親戚の者が病院で,御世話になつた關係から,それまで御互に消息を絶っていたものがその撚を取りもどして再三言信をしたものだ。
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