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1997年10月,臓器移植法が施行され,法の下で移植医療への道が開かれた.この法律の骨子は,(1)脳死体を含む死体からの臓器移植を認める,(2)脳死判定,臓器移植は本人が生前にその意志を書面で表明し,かつ遺族が拒まないときに限る,(3)脳死判定には移植医以外の2人以上の医師が当たる,(4)法律の内容を3年後に見直す,などである.これまで移植を必要とする日本の患者はアメリカをはじめとする諸外国で治療を受けるしか方法がなかったが,ようやく国内で治療を受けるチャンスが生まれたことになり,このこと自体は大変喜ばしいことである.移植でしか治療方法がない患者が存在することは医療関係者はもちろんのこと,一般社会でもすでに広く認識されていると思われ,本邦においても脳死体から移植医療が開始されるのはもはや時間の問題とさえ思われる.しかしながら,実際に移植医療が始まっても,この臓器移植法の施行に関してわれわれが忘れてはならないことがある.それは移植医療は臓器提供者の存在なしには成り立たず,そのため社会的,国民的合意が不可欠であることと,この法律が施行されるまでには脳死問題をめぐって激しい議論が続いたことである.移植医療を巡っては治療手段としての移植そのものの是非についてよりも,主に脳死問題について,もっと詳しく言えば「脳死を人の死と認めるかどうか」についてが論議の中心であった.社会的には,移植を行わなければならない患者に移植治療を行うという治療行為そのものは受け入れられても,自分自身や自分の家族が提供者となる場合に,脳死ではあるが心臓が動いている状態で臓器提供することは受け入れにくいということである.この問題は一般社会で脳死という言葉が認識されはじめてまだ日が浅いことや,一人一人の死生観にかかわる大変難しい面を持っており,閉鎖的かつ医師主導型で行われてきた日本の医療への不信が影を落としているという見解もある.とはいえ臓器移植法の成立によって,つまり法律によってこの論議には一応の決着がつけられたものと認識していた.すなわち臓器移植の意志を持った患者の脳死に際しては,しかるべき判定の後,移植を行ってよい,つまり脳死=人の死であると.しかしその法律施行後,重症の患者の治療に携わるたびに,ある種の奇妙な感覚を禁じずにはいられなかったのは私だけではないであろう.移植によって患者を救おうとする努力から生まれたこの法律が,期せずして,脳死となる直前まで不断の治療を続けた患者の死の定義を変えてしまったのである.
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