私の経驗
思い出すままに
植村 操
1
1慶大眼科
pp.40-41
発行日 1950年1月15日
Published Date 1950/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410200514
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余が我医学部の診療医と共にビルマに行つたのは昭和19年の夏であつた.非常に澤山の医療器械と藥品とを携行して,原地の人々の診療に從事する爲めであつた,ラングーン市に病院を開設したが,打續く敗戰の爲めに翌年の4月には医員,事務員の大部分は原地召集となつて,医師3名と看護婦21等名だげが残されたが,之等も全く九死に一生を得てラングーンを脱出して,タイ國に逃げた.それ以後は内地からの送金が全くなかつた爲めにバンコツクの陸軍病院に軍属として働いて1年余を遇した.以上の期間ビルマ人,インド人及び我傷兵の診療に從事して,色々経驗し,又多少の調査をした記録もあつたが,歸國に際して書類を全部燒却してしまつたので,詳しいことを書き残すことが出來ないのが残念である.しかし今尚お記憶に残つていることを少し書いて見よう.
ビルマ國には眼病患者が非常に多い.「トラコーマ」も相当にあつて,矢張り特に中流以下の人々に多い.重症のものも相当あつた.眼底病もあるには違いないが,病院を訪れたものは非常に少かつた.白内障は相当に多かつた.もつと長く滯圧して,詳しく調べたら非常に多いのではないかと感じた.而かも老人性のものが40歳臺位に來るのである.手術をすすめると容易に承知するから,手術を恐れて医者を訪れないのではなく,手術の可能のことを知らないのが多いらしい.
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