連載 医者も知りたい【医者のはなし】・35
炎の眼科医 土生玄碩(1762-1848)
木村 專太郎
1
Sentaro Kimura
1
1木村専太郎クリニック
pp.826-829
発行日 2009年8月25日
Published Date 2009/8/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408101572
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土生玄碩(はぶげんせき)は江戸後期の眼科医で,宝暦12年(1762),安芸吉田(現在・広島県安芸高田市)に生まれた.土生家は安芸郡山藩吉田で代々の眼科医として開業していた.広島浅野家の教姫の眼疾を治療したことを契機に,徳川幕府の御殿医に登用された.文政9年(1826)に,玄碩は江戸・長崎屋にとう留中の長崎・出島の蘭館医・シーボルトを訪ね,瞳孔を散大させる薬の情報と交換に,着ていた葵の御紋の入った紋服を差し出した.シーボルトが持参していたのはベラドンナ(学名Atropa belladonna L.)であり,シーボルトが教えた日本の植物は「ハシリドコロ」(走野老)であった.ヨーロッパ原産のベラドンナと日本のハシリドコロ〔原産:日本・ロウトウコン(莨トウ根),学名Scopolia japonica Maxim.〕は,アトロピンやスコポラミンなどのアルカロイドを含み,瞳孔を散大させる作用があるので,使えば白内障の手術などに多大な威力を発揮した.
ところで,玄碩がシーボルトに与えた葵の紋服は,もとより将軍家拝領品である.後に,玄碩は,文政11年(1828)のシーボルト事件でこの件の責を問われ,晩年の大半を刑に服することになる.すでに,幕府御殿医という地位・名声・富を得ていた玄碩が,敢えて国禁を犯してまで薬を入手しようとしたのは何故であろうか.常に新しい手術法を考案するために,あらゆることを貪欲に学ぼうという意欲にあふれる玄碩にとって,手術を容易にする散瞳剤を見逃すことができなかったのであろう.ひとえに,万人を救うことを最優先したと考えたい.それで題も「炎の眼科医」とした.
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