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はじめに
高橋春圃は,幕末に活躍した蘭法医で,熊本で初めて種痘を行った人物である.シーボルトの弟子で湯布院出身の医師・日野鼎(てい)哉(さい)が天保元年(1830)に肥後(現在の熊本)を訪れたときに,彼から牛の種痘のことを学び,蘭方医学に興味を抱くようになった.その後,嘉永元年(1848)に来日したオランダ商館医モーニッケ(Otto G. J. Mohnike 1814-1884)は,種痘のために牛の天然痘の痘漿(とうしょう)を持参したが,シーボルトが文政6年(1823)に持って来たときと同様に,長い船旅で中のウイルスは死滅していた.
その嘉永元年にモーニッケは天草に行き,種痘のことを説いた.そのことを聞いた高橋春圃は直ちに天草に赴いたが,すでにモーニッケは去った後であった.佐賀藩主・鍋島直正の依頼でモーニッケは牛痘苗を輸入し,嘉永2年(1849)に種痘が長崎で成功した.その報に接した春圃は,直ちに長崎に赴いてモーニッケに種痘法を学び,熊本で種痘法を成功させ,その普及に努めた功労者である.安政4年(1857)にオランダ軍医・ポンペ(Johannes L. C. Pompe van Meerdervoort 1829~1908)が,長崎において日本の医師に医学を教えたときに,当時55歳の高橋春圃は,ポンペ塾開講の3年後の万延元年(1860)年に長崎に赴き,ポンペの門下生になった.
春圃は,明治維新後,昔から熊本に存在した伝統ある医学校「再春館」を廃止して,新しい医学校を発足させる原動力となった陰の立役者でもある.この新医学校に長崎医学校からマンスフェルトが招聘され,後の明治日本医学界の重鎮になった細菌学の北里柴三郎と緒方正規,そして産婦人科学の功労者・浜田玄達が巣立ったことは有名である.
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