連載 整形外科と蘭學・10
奥田万里と木骨
川嶌 眞人
1
Mahito Kawashima
1
1川嶌整形外科病院
pp.1336-1338
発行日 2004年10月1日
Published Date 2004/10/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408100561
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大坂の各務文献の学問的系統は子孫の相次ぐ夭折のため,門人である奥田万里に伝えられた.万里の父は奥田直行,大坂の整骨医で各務文献の「整骨撥乱」の叙を書いている.万里は字を周道,号を萬里,堂号を釣玄堂といった.父直行とともに,各務文献に整骨術を学び,草野,古墳の間に骨骸を収集して,各務木骨の基礎作りに参画したのみならず,人骨をモデルとして,細工師池内某に木骨を作製させた.蒲原宏氏の著作によれば,友人の尾張藩医で蘭方医の吉雄俊蔵の奨めにより,名古屋藩医学館に木骨と文献の著書「整骨新書」と自著「釣玄四科全書整骨篇」2巻,ならびに「筋骨療治目次」を献納したということから,名古屋における整骨医としては当時を代表する人物であったと思われる.
「釣玄堂門下誓約名簿」によると,12人の門人が萬里から修行印可を授与されている.弟子たちは福井,鳥取,大坂からも来ていたことからして,その名声は周辺の藩にまで届いていた模様である.万里の著書としては,「釣玄全書外科篇金創方論」3冊,「釣玄四科全書整骨篇」1冊,「釣玄流四科醫術凡例」1巻がある.万里はオランダ語を解読する力はなく,漢方と蘭方の折衷医であった.
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