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故高橋喜久夫教授の思いで
田北 周平
1
1徳島大学
pp.1473-1474
発行日 1965年11月20日
Published Date 1965/11/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1407203799
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昭和40年7月19日徳島大学医学部第2外科講座の高橋喜久夫教授は多数の人に惜しまれて幽明境を異にした.
思いかえせば昭和29年10月に本学大学院発足と同時に同君をお迎えしてから,はや10年を越えるが,おたがいに本学教授として苦楽をともにした.九大医学部の卒業は昭和6年であるが,こんなに年をとつてみると,どちらが古いのか判らない気持ちになる.同君に初めて接したのは,九大医学部内での対教室リレーであつたのだから奇妙な機縁である.学生時代小生はスパイクとなじんでいた関係上,赤岩外科メンバーのアンカーをつとめていたが,マネージャが小生に試合直前に忠告した.それは,対抗の後藤外科では,ナンバーワン走者を前にだしてトツプを奪い,アンカーには名前は判らぬが柔道の猛者を起用して走らせる作戦だということだつた.その意味はチョットでも接触すると当方がころぶことを意味するので,小生は慄然とした.小生はその被害を防ぐため遠廻りをしてゴールに逃げ込んだ事件を思いだす.そんなことは,いつしか忘れて長年月を経た終戦直後,小生が九州の国立大村病院に勤めていたころ,同じ系統の国立福岡療養所において肺結核の治療に打ち込んでおられる高橋外科部長を改めて知り,篠崎院長が両方を兼務しておられた関係もあり,手術を見学したり有益な教示を受けることもあつた.
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