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東京都立松沢病院の源をさかのぼってみると,東京養育院の癲狂室であって,明治12年に東京府癲狂院として誕生し,東京府の唯一の公立精神病院となったのである。その後において東京帝大精神病学教室との間に運営互助の関係が結ばれたので,我国の精神医学と精神医療の建設と発展に一段の影響がもたらされた。一方精神科看護にあっても,精神病者を看護するものの心構えの重要性については古くから注目され,歴代の院長は看護者の教育指導に力を注がれ正式の養成機関を育成した。かくして長年の推移の間にめざましい看護の向上発展をもたらした結果,我国の精神科看護の軌範を築くにいたったのである。ここに年代を追ってそれらの歩みの姿を述べることにした。
東京府癩狂院は明治12年(1879),さきに宮内省の下賜金によって創立された上野公園内の東京養育院の癲狂室に収容されている精神病患者50名を収容して東京府が運営することになり,初代の院長は東京府病院の長谷川泰が兼任された。これが松沢病院の濫觴である。設立当時患者の看護にあたるものは養育院救助人と称する男子であって,精神病者の看護には何らの知識経験もなく,ただ患者に食餌を与えるのが主な任務であった。病室は男女の区別なく,亢奮患者を鎮静させるためには,手錠足錠が使用される状態であったが,長谷川院長は患者の処遇を重視して,明治13年(1880)初めて「看護人心得」を制定した。その心得の主旨には「看護人は患者に対し言語整然,挙動方正にして,患者自ら我が狂乱せるを覚りて,漸く本心に復するよう之を導くべし」などの条規が制定され,看護人の精神面の指導に関心が向けられた。入院患者が130名に増加し,自費患者30名も入院し得ることになったが,いまだに男女の区分は明確でなかった。
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