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筆者はもはや歴史になってしまった安田講堂事件の際に東京大学医学部の学生であった。あの1年半に及ぶ紛争は何だったのかについてはさまざまな意見があり,自分たちにとってはまだまだ歴史になってはいないので,三人称で語るのには今も躊躇を覚える。またそれは本論の目的ではない。クラス全員が1年留年するという辛酸(自業自得?)を味わったあと,ようやく卒業することになって,さてどこに行こうかと迷った時に念頭にあったのは精神科と小児科であった。当時東京大学は紛争終結後で落ち着きを取り戻しつつあったが,その中にあって依然として紛争の渦中にあったのが,まさにその2診療科であった。最後に近くなるまでその間で悩んでいたのには,実はもう1人いて,それが今は福島医科大学の幹部にまでなっている丹羽真一教授であった。結局どちらが先に進路を確定したのか判然としないが,とにかく2人とも精神科を選ぶことになった。外から見ている限りは精神科のほうが混迷の度合いは強かった――結果的には逆であったと今はいえるが――ので,言ってみれば「赤信号皆で渡れば怖くない」というのが,心境からはもっとも事実に近いかもしれない。なにしろ現在は国立精神・神経センター総長である樋口輝彦先生も一緒だったわけだから。
1972年,精神科での研修を始めてたちまち,東京大学病院精神科小児部(現・こころの発達診療部)に通っていた自閉症(いわゆるKanner型)の子どもたちに魅了されてしまった。ノーブルな顔立ちに似ず1日中奇妙にハイトーンな声をあげて走り回る子どもたち。世話をする大人たちを電信柱のように扱って視線は全く交わらない。自閉症キャンプに参加するかたわらKannerの原著を読みふけり,精神分析による「母原病」論からの脱却を証明しつつあったRutterの論証に夢中になった。ちなみにアスペルガーの名前にめぐり合ったのもその頃だったが,なぜかその意味合いは今日のそれとは異なり,ついにわが国はアスペルガー症候群を再発見できなかった。当時の学会はほとんど中国の文化大革命と連動したような状況にあり,科学的な議論の雰囲気は皆無であったことに関係するのかもしれない。まず子どもの神経学に詳しくならなければと思って東京女子医科大学の福山幸夫教授の門をたたき,小児てんかん例を多数経験もしたが,徐々に動物モデル研究に軸足が移り,研究三昧の生活を約10年続けたのも,こういった風潮が嫌になったからといえようか。
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